History
西松建設の歴史
1850 嘉永3年
- 創業者西松桂輔生まれる
- 当社の創業者西松桂輔が美濃国(今の岐阜県)安八郡で生を受けました。そこは木曽川、長良川、揖斐川が入り混じる輪中地帯です。この地域では頻発する水害から人命と耕地を守るために人々は力を合わせて堤防を築き治水事業が繰り返されてきました。創業者は少壮にして土木を志したといいますがそのことと無縁ではないでしょう。
1874 明治7年
- 西松の創業
- 創業者24歳の時でした。やがて、1877年(明治10年)西郷隆盛の挙兵によって西南戦争が起こります。官軍は熊本を目指しますが陸上での物資の輸送は専ら馬と人力によって行われていました。西松桂輔はここに目をつけました。武器、弾薬、糧秣などの輸送こそ徒手空拳の若者たちにとって戦乱が生んだ一攫千金の仕事に思えました。桂輔は一族郎党を率いて九州若松に上陸しますが戦争は終結しており、桂輔の目論見は外れてしまいます。
1903 明治36年
- 西松桂輔、土木稼業からの引退
- 間組の下請とし請け負っていた鹿児島本線栗野嘉礼工事が西松桂輔の最後の現場となり、長男の光治郎に後進を譲りました。一時期に光治郎は浅草で呉服商を営んでおりました。桂輔は当初、息子たちに請負の稼業を継がせる意志はありませんでしたが、それが翻意されたのは、既に間組の有力下請に成長していた稼業の軸となるべき人物が望まれていたからに他なりません。ともあれ、創業者西松桂輔の30有余年に及ぶ土木稼業からの引退でした。
1906 明治39年
- 間組との共存時代、39規定の締結
- 間組は八代線第6工区の工事に下請として参加していた当社に対して両社の関係に新機軸を案出しました。年号に因んで39規定と呼ばれる協定は両者が共同して見積り、施工して得た工事利益を間組6分、西松4分の割合で分配するもので両者が協力関係を密にすることによって施工面、採算面で最大の効果を上げることが出来ました。間組と西松の関係は元請け、下請というものではなくパートナーに近いものでした。
1909 明治42年
- 南満州鉄道安奉線第8工区
- この第8工区は、南満州鉄道の奉天から満州と朝鮮との国境安東に至る路線の工区延長23.4kmのうち5ヶ所の橋梁と4か所の隧道から成る安奉線で1、2の難工事と言われました。間組と当社は先の39規定により一層濃密な協力関係で施工しました。
1914 大正3年
- 九州、宮崎線第12工区新線工事を西松単独で請負。運命の工事
- 苛烈な競争の果てに西松単独名義で受注した工事です。折からの第一次大戦の影響で資材や労務費が日増しに高騰するなど困難な船出となりました。西松光治郎は凄まじいばかりの気迫で工事の陣頭指揮を執り独立創業の命運を賭けました。資金繰りに窮した時に不安定な経済情勢の中にあっても三菱銀行京都支店から無担保融資を受けられる幸運に巡り合いました。このことが工事完遂に大きく寄与することになり光治郎は三菱銀行の京都支店長を終生の恩人としました。当社では長らくこの工事を運命の宮崎線第12工区と呼んでいました。
1916 大正5年
- 名称を西松組に変更
- 西松工業所という名称は独創的なものでしたが西松組と変更しました。名称を変更した正確な理由は不明ですが、当時殆どの請負業者が組を名乗っている中で営業上の判断から変更したと思われます。
1919 大正8年
- 九州、肥薩線2、3、4、6、7、8、9、10甲、10乙、11工区を受注。西松中興の工事
- 最初に入札にかけられた第2工区の落札額は企業先が完成を危ぶむほどの低額でしたが、当社の仕事ぶりは企業先に大いに認められ第3工区の特命受注につながり、更に特命(4、6、10甲、10乙工区を含む)により大半の工区を受注し業績の安定に大いに寄与しました。工事は1927年(昭和2年)まで続きました。当社では経営基盤を形作る礎になったこの工事を中興の工事と呼んでいました。
- 四国、松山線全線を単独請負で施工
- 松山線は現在の予讃線です。伊予西条、松山間の80.1kmを当社が単独で全線を施工しました。起点、西条の西と終点、松山の松を文字って西松線とまで呼ばれたほどの実績をあげました。この工事の受注は肥薩線第2工区での当社の奮闘が鉄道院に高く評価された結果でした。
1921 大正10年
- 鉄道は西松創業の恩人
- 1921年(大正10年)には、全国の鉄道営業キロ数は1万5千kmに及びその年に鉄道50周年の記念式典が華々しく挙行されました。その式典で西松光治郎は鉄道事業への貢献を評価されて第1回大臣表彰を受けました。西松光治郎が常に口にしていたのは、「鉄道は西松創業の恩人」という言葉でした。
1926 大正15年
- 日本窒素(朝鮮水電)赴戦江発電所水路工事(第3工区)(第4工区)
- 1926年(大正15年)朝鮮に進出した日本窒素は標高1,500mの赴戦高原にダムを築き直径4m、28kmの長大隧道によって水を日本海に誘導し四か所の発電所をもって常時20万kwの発電を行う事業を展開します。これは将来建設される朝鮮窒素(日本窒素)の巨大工場に電力を供給するものでした。水路工事は1、2工区を間組、3、4工区を当社が施工しました。厳冬期は零下40度の極寒との戦いもありました。想像を絶する難工事は1928年(昭和3年)に完成しました。
1927 昭和2年
- 朝鮮窒素(日本窒素)興南工場新築工事
- 赴戦江発電所から供給される電力によって操業された朝鮮窒素(日本窒素)興南工場は600万坪という壮大な工場敷地に建設されました。果てもなく広がる荒野は瞬く間に巨大工場に変貌していきました。1944年(昭和19年)には朝鮮窒素の従業員だけで4万5千人に達し、家族、工事関係者を合わせると人口18万人の都市が出現しました。工事は1945年(昭和20年)まで続けられました。当社は朝鮮窒素の本宮工場、阿吾地灰岩工場なども施工しました。
1929 昭和4年
- 合資会社西松組
- 個人経営から法人組織に改められたことは、西松光治郎の「組は組長個人の組ではなく組員全員の組である」という信条を一層明確にしたものでした。新会社では西松光治郎を社長に林米七を専務に資本金100万円をもって設立されました。
1931 昭和6年
- 西松組本社の東京移転
- 京都にあった本社を丸の内八重洲ビル5階に移し赤坂台町の東京支店を閉鎖しました。東京移転は営業基盤の東日本への拡大を意味していました。順次、福島、埼玉、樺太、北海道、秋田、静岡、岩手の各地に出張所を設けるに至りました。
1932 昭和7年
- 満州大連出張所開設
- 南満州鉄道の指定請負人に選定されたのを機に出張所を開設しました。西松組は南満州鉄道の雄羅線、寧佳線、興寧線、同浦線、虎林線などの工事に携わりましたが、とりわけ西松組の力を発揮した工事と言われるのが雄羅線第一工区でした。この工区には満州と北朝鮮を結ぶ3.8kmの長大隧道があり、全山硬質の花崗岩からなる隧道を2年余りで完成させた建設史上に残ると言われる稀代の難工事でした。1937年(昭和12年)には奉天出張所も開設されました。
1933 昭和8年
- 朝鮮長津江水力発電導水路及び堰堤工事
- 日本窒素は朝鮮総督府の支援を受けて長津江水電を設立して長津江発電所建設に乗り出しました。これは鴨緑江支流の長津江に堤高約50mのダム(葛田里堰堤)を築き導水路トンネルを建設するものでした。導流された水は4ヶ所の発電所によって33万4千kwの電力を生み出しました。葛田里堰堤工事の現場は冬には牛馬の涎すら凍る過酷な条件での作業でしたが、悪条件を押して厳冬期も作業が続けられました。工事の完成後は周囲160kmに及ぶ人造湖が出現しました。
1935 昭和10年
- 西松光治郎逝去 享年62歳
林米七が社長に就任 - 大正初期の群雄割拠する請負の社会に個人経営として独立創業し、厳しい社会経済情勢の中で鎬を削り、多難な舵取りの任にあって次第に頭角を現しました。西松組を孜孜営々と育て上げた西松光治郎は社運が隆盛に向かう中で病を得て不帰の客となりました。創業者西松桂輔は請負業者としての当社の基礎を築きました。それを事業として確固たるものに仕上げたのは西松光治郎です。常に光治郎と共にあった林米七が次代を担いました。
1937 昭和12年
- 株式会社西松組へ移行
- 当社は、既存の合資会社を吸収して株式会社に一元化しました。資本金は300万円、株主は62名でした。この年には日中戦争が勃発しています。当社の施工区域も朝鮮、満州、北支と外地への広がりを見せています。
- 朝鮮、鴨緑江(おうりょっこう)水豊ダム
- 構想十余年、中朝国境の大河鴨緑江(おうりょっこう)を締め切る大ダム工事が朝鮮と満州国との共同事業として始められました。日本窒素は事業遂行のために朝鮮鴨緑江水電、満州鴨緑江水電を設立し、工事は右岸の満州側を当社、左岸の朝鮮側を間組が施工しました。ダムは堤長950m、高さ100m、コンクリート容積300万m3、貯水容量116億m3という巨大なものでした。施工上の様々な試みがなされ完成したのは1943年(昭和18年)のことでした。当時東洋一といわれた鴨緑江ダムの建設は戦前に於ける当社の代表工事です。
1940 昭和15年
- 満州西松組設立
- 戦争の拡大によって多くの建設業者が大陸へ歩を進めました。当社は満州にあって1939年(昭和14年)首都新京(後の長春)に支店を設けていましたが、満州国の産業方針に従い満州国法人を設立しました。満州国は資機材、労力不足に対処するために1941年(昭和16年)に満州土木建築協会を設立し、建設業者による隣組を組織し企業の枠を越えて協力して工事を遂行する体制がとられました。当社は間組、鹿島組、西本組、日産土木と5社協定の隣組に編入されました。
1945 昭和20年
- 戦後の再出発
- 当社では当時の職員の6割が外地勤務者であり、終戦による外地からの引揚者は家族を含めると3千人を越えました。当社にとっては敗戦によって在外資産の全てを失い営業基盤の殆どが消滅するという莫大な損失を蒙るなかでの再出発でした。本社屋はGHQ(連合軍総司令部)の接収を受けて転々とする中でも1945年(昭和20年)盛岡支店、1946年(昭和21年)名古屋支店、広島支店を開設して既設の熊本支店と合わせて4支店による再出発の体制を整えました。
1946 昭和21年
- 米軍青森県三沢基地工事で起死回生成る
- 工事は幅員45m、延長2,580mの滑走路の建設及び170棟の兵員宿舎、167戸の家族宿舎から成りました。慣れないアメリカ仕様の建築工事に加えての超突貫工事でした。荒漠たる丘陵地にブルドーザーやトラックが砂塵を巻き上げて走り回りました。当社は当初工事の70%を施工しました。当社が半世紀以上に亘って築き上げてきた基盤が終戦によって壊滅に帰する中で会社を再起させた工事でした。外地から引き揚げてきた職員は次々と三沢に送られ、最盛期には650人を数え作業員は1万人を超すこともありました。工事は米軍の評価を得てその後の米軍基地工事受注の大きな布石となりました。
- 岩手県北上川水系、石淵ダム、日本初のロックフィルダムの施工
- 岩手県石淵ダムは堤長345m、堤高53mの堰堤をもって北上川の水害防止と下流一帯の農地を潤し、更に電力開発を意図した多目的ダムです。堰堤は岩を台形に積み上げて堰堤を造る石積みダムです。当時の日本には施工例は無く専ら米国の文献から得られる情報と現場の創意工夫によって施工されました。40万m3の大量の石塊を採取するために岩山に坑道を掘り11回に分けて大規模な爆破を行いました。これが土木史上有名な猿岩大発破です。やがてダムは群青の水を貯え胆沢平野の農業は飛躍的に発展しました。
1948 昭和23年
- 商号を西松建設株式会社に改める
- GHQ(連合軍総司令部)は、組という呼び名が民主化を妨げる封建的なイメージがあるとして組を名乗っていた建設業者に改称を求めました。これにより西松組は西松建設に改めました。同様に鹿島組、清水組、戸田組なども改称しました。
1952 昭和27年
- 米軍8基地で航空燃料パイプライン敷設工事(POL工事)を施工
- 当社は三沢、沖縄などの他にも硫黄島、ジョンソン、横田、キャンプマクネア、座間等々多くの米軍工事を施工しています。千葉、福島、北海道、秋田では米軍のレーダー基地を施工しています。米軍は同様レーダー基地を全国、28ヶ所設けましたが4件が当社に一括発注されています。同じ頃、1952年(昭和27年)米軍全航空基地の航空燃料パイプライン敷設工事(POL工事)を施工しました。千歳、三沢、松島、横田、立川、小牧、伊丹、板付の各基地で施工された工事は航空燃料のパイプラインの敷設のみならず基地拡張の土木工事を伴うもので契約金額は16億円にのぼりました。当社にとって戦後初めての高額受注物件でした。
1953 昭和28年
- 熊本県荒瀬ダム、機械化施工のモデル現場
- 西松三好社長は北米を視察して機械化施工の実態を目のあたりにし、日米彼我の差を実感しました。熊本県で施工した荒瀬ダムの建設工事は当社の機械化元年の到来ともいえるモデル工事でした。現場にはショベルカー、ブルドーザー、コンクリートミキサー、ジャンボドリル、ロッカーショベル、コンクリートポンプが次々と投入されました。その殆どが外国製で現場に機械が搬入されると説明書の翻訳から始まりました。また、日鉄3号と呼称された鋼矢板を480枚打設しましたが、この現場が国産の鋼矢板を本格的に使用した最初の現場です。本社に機械部が設けられたのは1956年(昭和31年)のことでした。建設業各社は機械の導入により生産性の向上図りました。
1957 昭和32年
- 愛知用水の水瓶、牧尾ダムの施工
- 堤高105m、堤長264mで当時国内では2番目の規模のロックフィルダムです。ダムの建設は愛知用水事業の水瓶の役目を果たすものでした。愛知用水事業の誕生は農民の願いを農民によって叶えたと言われています。干ばつに悩む土地に水を引いて肥沃の土地に変貌させることに情熱を燃やした久野庄太郎氏、濱島辰雄氏の二人の青年が国を動かしました。ダムの水は延々100kmの用水を流れ耕地に注がれました。事業の完成の日、村人は愛知用水の水を神棚に供えたと言います。
1958 昭和33年
- 日比谷地下駐車場の施工
- 東京の日比谷公園の地下11.5m、縦横120mの広範囲に亘って開削した後に470台の車両を収容する本格的駐車場を建設しました。予想以上に地盤が軟弱であったために中央部から掘削を開始し構造物を作りながら順次四方を切り開いていくアイランド工法により施工しました。建設業界で鋼製の切梁を使用した初めての工事でもあります。
1959 昭和34年
- 東海道新幹線南郷山隧道施工「水の南郷山隧道」
- 静岡県熱海駅近くに「水の南郷山隧道」と言われた長大トンネルがあります。5,170mのトンネルを3工区に分けて当社、飛島建設、村上建設が施工しました。現場は異常出水との闘いであり地表は渇水しました。湧水の激しさは国鉄始まって以来で芦ノ湖の水が涸れるのではないかとさえ言われました。現場は激しい夕立の中にいるようでした。当社は先進導坑による半断面掘削により乗り切りました。当社は、この工事を初めてとして東山隧道他、東海道新幹線では多くの工事を施工しています。
1960 昭和35年
- 大手町合同庁舎建築工事の施工
- 当社が大手町合同庁舎建築工事を受注した際に「土木の西松があれだけの建築工事をうまく施工できるのだろうか」という声までありました。この工事に従事した建築職員は献身的な努力を払い、未経験の困難を克服して工事を立派に完成させ建築技術者の意地をみせました。合同庁舎の完成後は労働省が入居しました。建物は既に解体されていますが当社の建築のモニュメントとなる工事でした。
1961 昭和36年
- 尼崎製鉄所堺製鋼所建築工事施工、BCS賞を受賞
- 尼崎製鉄所堺製鋼所の冷間圧延工場の建設に当たって当社の設計施工の特命工事として受注しました。当時の職員の平均年齢が26歳という若さに溢れた現場でした。工事は高い精度をもって施工され1964年(昭和39年)のBCS(建築業協会)賞を受賞しました。尼崎製鉄はその後、神戸製鋼所と合併、更に日新製鋼の傘下に組み入れられました。
1962 昭和37年
- 虎の門本社ビル完成と株式の公開
- 当社は、昭和30年代に至って社業の安定をみるとそれまでの木造だった本社屋を新装し8階建ての西松ビルを建設しました。設計施工の両面からも西松の建築の総力を投入した仕事であり、その面からも建築のモニュメントといえる建物です。そして、本社屋の建築が最盛を迎える1961年(昭和36年)に東証2部に上場、翌1963年(昭和38年)には1部に上場され新資本金は19億5千万円に増強されました。
- 香港ロアシンマンダム工事施工
- 難民の流入で水不足に陥っていた香港で計画されていた堤高55m、堤長250mのダム建設工事を当社が受注しました。これは戦後初の本格的海外進出となりました。香港の人々の心の中に未だ戦争の傷痕も残り工事は苦難の連続でした。作家の木本正次氏は実話を編んで小説「香港の水」を著し、「ホンコンドリーム」と題してNHKでドラマ化されました。工事は1965年(昭和40年)に完成しました。当社の戦後の海外工事を語る上で原点とも言える工事です。
1963 昭和38年
- タイ現地法人日泰建設設立
- 日本の建設業者として海外での現地法人の設立は米国竹中工務店に次いで2番目のことでした。法人設立の翌、1964年(昭和39年)にアジアハイウエイのバンコク、ナコンパトム間の延長14kmのハイウエイ建設工事を受注し、香港ロアシンマンダム工事に続く海外工事が着工されました。タイ国には同時期に大林組、竹中工務店、住友建設が進出を果たしており当社とともにタイ国での先発4社といわれています。
1965 昭和40年
- 蜂の巣砦、下筌(しもうけ)ダムの施工
- 日本のダム建設史上に残る壮絶な反対運動が展開されたのが熊本県の下筌(しもうけ)ダムです。水没予定地域の住民はダム建設予定地に鉄条網を張り巡らせた反対拠点を築きました。人々はそれを蜂の巣砦と呼びました。籠城者が集まる中で国は強制代執行を宣言しましたが反対派は第二、第三、第四の砦を築いて闘争が続けられました。度重なる反対運動に遭いながらも工事は休みなく続けられました。法廷闘争による国の勝訴と国による住民への根気強い説得があって事態は収拾し、ダムは1969年(昭和44年)に完成します。完成後の堰堤に掲げられているのは「下筌ダム反対」の反対の字を削って復元したものです。
- 都営地下鉄1号線金杉橋工区で凍結工法を採用
- 都市の地下鉄は土被りが充分にとれない河底を通過せざるを得ない場合もあります。その際、河底の土を凍らせて掘削をする凍結工法が導入されました。-20°$301C30°に冷却された溶液が埋設された凍結管を循環して地中を凍結させます。掘削は凍った土を斫って坑外に搬出されました。当社は金杉橋工区に続いて営団地下鉄9号線/都営地下鉄6号線神田橋工区、都営地下鉄6号線芝園橋工区、大阪地下鉄5号線14工区でも凍結工法での施工を行いました。
1967 昭和42年
- 当時世界一のボーリング場の施工
- 気軽に楽しめるレジャースポーツとしてボーリングブームが到来しました。1967年(昭和42年)には全国のボーリング場は約500ヶ所を数え、ボーリング人口は270万人に達しました。女子プロボーラーの誕生が更にその人気を高めました。その当時、当社は252レーンを有する世界最大のトーヨーボウル(東洋郵船)を都内で施工しました。
1969 昭和44年
- 京葉線羽田沖トンネルで世界初の大断面泥水シールド工法で施工
- 当初は圧気トンネル工法が考えられていました。しかし、海底下での大断面トンネル(外径7.3m)での均等な圧気の制御が難しく大事故を誘発しかねないとの配慮から泥水シールド工法が採用されました。泥水シールド工法はシールド機の前面で泥水を循環させながら切羽(きりは)の安定を図るものです。日本ではこの工事の成功によって泥水シールド工法の適用例が急速に増大しました。トンネルは日本鉄道施設協会から全国の歴史的な鉄道施設50件のうちのひとつに選定されました。
1971 昭和46年
- 香港コンテナヤード工事施工
英国土木学会海外賞を受賞 - 香港クワイチュンコンテナヤード2、3、4号バースを相次いで受注しました。2、3号バースで当社が技術提案を行った横桟橋工法は英国土木学会に新風を吹き込んだとして英国土木学会海外賞を受賞しました。4号バース工事は海外建設協会30周年に当たって香港の経済発展、社会開発に対する寄与度が評価され数百件の工事から厳選されたOCAJI(海外建設協会)賞を受賞しました。
1972 昭和47年
- 迎賓館和風別館施工
- 東京赤坂迎賓館の敷地内に賓客に対して和のおもてなしを行う場として建設されました。正式名は遊心亭といいます。文化勲章を受章した建築家谷口吉郎氏の設計によるもので厳選された資材を用いて厳しい施工管理のもとに施工されました。伝統技術と現代技術の粋が結集された工事です。
1973 昭和48年
- 土砂との闘い20年、鍋立山トンネルの施工
- 北越北線の鍋立山トンネルは「豆腐の山にトンネルを通すようなもの」と例えられた稀代の難工事でした。掘っても、掘っても押し出てくる膨張性地山に対してあらゆる土木技術が投入された土木建設史上に特記される工事でした。途中の工事中断もありましたが20年間に亘る一進一退の後に貫通したのは1992年(平成4年)のことでした。
1974 昭和49年
- 青函トンネル千軒工区施工
- 青函トンネルは9工区に分けられ日本のトップレベルの建設会社17社が参加しました。当社は北海道側陸上部の千軒工区を施工しました。掘削は自動断面掘削機(ロードヘッダー)を投入することによって順調な進行を確保できました。注目の海底部は1985年(昭和60年)に貫通しました。数々のトンネル技術が発揮され歴史に残る難工事が完成したのは1987年(昭和62年)のことでした。その年、国鉄は分割民営化されました。
1976 昭和51年
- 香港地下鉄1期工事の施工
- 当社は香港九龍半島で建設された地下鉄1期工事のうちチムサーチョイ(尖沙咀)駅とジョルダン(佐敦)駅及びその間のトンネル工事を施工しました。周辺の区域は九龍半島の繁華街でビルが密集しており地下水位の低下が厳しく制限されました。当社は遮水性の高いPIP連続柱列杭の施工を企業先に提案して評価を得ました。この工法は論文にまとめられ、1981年(昭和56年)に2度目の英国土木学会賞を受賞しました。1期工事の開通式典はアレキサンドラ王女の臨席のもと1980年(昭和55年)に行われました。
1978 昭和53年
- 本州四国架橋工事に参加
- 3ルートから成る本州と四国を結ぶ夢の懸け橋が紆余曲折を経て着工されました。当社が参加した工事は、「神戸~鳴門ルート」(神戸淡路鳴門自動車道)の大鳴門橋下部工事、明石海峡大橋下部工事。「児島~坂出ルート」(瀬戸中央自動車道)の櫃石橋下部工事。「尾道~今治ルート」(しまなみ海道)の来島大橋下部工事を施工しました。精度の要求が高く海工事が故の施工上の制約の多い工事でした。瀬戸内に巨大構造物が姿を現し本州と四国は陸路で結ばれました。
1979 昭和54年
- 香港電力火力発電所工事に参加
- 香港電力は年々増大する香港島の電力事情に対処するために香港島の南西5kmに位置するラマ島に新鋭の火力発電所を建設しました。当社は建設初期のステージから参加しています。3万tの鋼管杭を使用した本体建屋工事の基礎は日本のメーカーの全てが参加する日本鋼管杭見本市の観を呈しました。1991年(平成3年)には脱硫装置などの大型土木工事を特命受注しました。このことは長年に亘って培われた両社の信頼関係によるものでした。
- 新幹線上野寛永寺トンネル施工
- 東北、上越新幹線は沿線住民の建設の同意を得られず大宮を始発駅としていました。やがてその問題も解決されて新幹線上野駅と隣接するトンネル工事が着工されました。当社は京浜東北線、山手線など10線が走る国鉄営業線下を斜めに横断しながら谷中墓地から日暮里に至る間のトンネル工事をシールド工法により施工しました。掘削機は外径12.82mの世界初の大断面半機械堀式シールド機が投入されました。東北、上越新幹線の東京駅乗り入れは1991年(平成3年)で両線が大宮を始発駅としての開業から8年半後のことでした。
- 東京ユニオンチャーチ
新築工事着工 - 東京ユニオンチャーチはプロテスタント系のキリスト教の教会で、10社の指名コンペで西松案が当選したことに始まり、その後、教会側の建設委員と細部の打ち合わせを重ね、基本計画から詳細設計まで約2年の歳月と工事着工後10ヶ月の工期を要して完成しました。
1982 昭和57年
- 香港地下鉄3期工事施工
- 当社は香港島で計画された3期地下鉄工事4工区(うち1工区は1981年受注)を受注しました。3期工事でも日本建設業者の活躍は目覚ましく13工区中、9工区を占めるに至りました。1期工事から3期工事までに建設された3線(九龍半島2線、香港島1線)37駅の路線は5つの乗換駅で有機的に結ばれ1日180万人の乗客の足になりました。この間、当社は香港地下鉄公司の建設投資額の10%を受注しました。
1984 昭和59年
- シンガポール地下鉄工事
相次いで受注 - シティーホール駅などから成る107B工区を初めとして101工区ビシャン操車場、301工区ブギス駅、ラベンダー駅と駅間を結ぶ単線並列トンネルを受注しました。301工区は複雑な地層で企業先も難工事と認識していましたが、精度の高い仕事を成し遂げることが出来ました。
- 関越道永井川橋工事、日本で最も高い橋脚が立ち上がる
- 群馬県沼田地区で、日本道路公団発注の関越自動車道永井川橋工事に於いて、高さ76m(当時日本一高いハイピア)の橋脚を当社が開発した「ジンポール式ジャンプアップ工法」を採用して施工しました。永井川橋は、橋長約490m、橋脚8基で永井川が流れる幅広のV字谷に架かる橋です。
- タイで超高層ビルを施工
- 地上21階、高さ79mの高級マンション、シバタワー、次いで1985年(昭和60年)地上17階のバンコク商業銀行本店新築工事を受注しました。特に銀行工事では軟弱地盤の厳しい施工条件で本社の土木設計部との連携で施工し完成させました。
1985 昭和60年
- 真野ダム(福島県)定礎
- 昭和58年より福島県相馬郡飯館村で工事を進めてきた、真野ダムの定礎式が挙行されました。堤体コンクリート打設に当たり補助ダムとしては全国初(当時)の「RCD工法」を導入しました。重力式コンクリートダム、堤高69m、堤頂長239m、堤体積212,000m3
1986 昭和61年
- 椿山ダム(和歌山県)
労働大臣優良賞を受賞 - 椿山ダム出張所が安全成績が極めて高い水準に達し、他の模範と認められる事業所に与えられる、昭和61年度労働大臣優良賞を受賞。椿山ダムは、工期 昭和55年12月~63年3月、重力式コンクリートダム、堤高56.5m、堤頂長236.0m、堤体積240,000m3
1987 昭和62年
- 海洋土木史上最大の関西新空港工事に参入
- 関西空港は泉州沖5km、平均水深約20mの海域に埋め立て式人工島を建設し、連絡橋により結ばれる世界初の海上空港でした。世紀の建設工事に多数の業者が参画し、当社も1987年(昭和62年)の空港連絡橋下部工事を皮切りに1994年(平成6年)までの間に造成工事、ターミナルビル建築工事、共同溝、排水処理施設工事などを施工しました。空港は1994年(平成6年)、7年余の建設期間を経て完成開港しました。その後、2本目の滑走路建設の2期工事は1999年(平成11年)に着工しました。
- 大門ダム(山梨県)竣工、昭和61年度土木学会技術賞を受賞
- 大門ダムは、重力式コンクリートダム、堤高65.5m、堤頂長180m、堤体積180,000m3、工期 昭和56年3月~昭和62年7月。大門ダム右岸のアスファルトフェーシング工法による精度の高い施工が、土木学会技術賞受賞の主な理由になりました。
1988 昭和63年
- BOTプロジェクト
香港テーツケントンネル受注 - 当社は香港の九龍半島と中国大陸を結ぶ大動脈となるトンネルプロジェクトをBOT方式(建設からトンネルの運営、運営期間まで含めた総合入札方式)で受注しました。プロジェクトは香港政庁の基本設計に対して提案を積み上げて原案の工期を11ヶ月短縮する代案をもって受注したものです。上下線夫々4kmのトンネルの施工には千トンを越す火薬が使用されて100万m3の岩掘削が行われました。工事は当社自身の提案工期を更に2ヶ月短縮して完成させました。このプロジェクトの成功は当社の全ての部門の力が凝縮したものでした。2005年(平成17年)に海外建設協会創立50周年を記念したOCAJI(海外建設協会)プロジェクト表彰を受賞しました。
- 日本最大級の重力式コンクリートダム
月山ダム着工(山形県) - 月山ダムは、堤高123m、堤頂長393m、堤体積1,160,000m3の重力式コンクリートダムとして、東北では最大級、国内でも有数の規模です。工事の特色として、RCD工法+BCM工法であり、コンクリート運搬手段として全国初のベルトコンベアー+ダンプトラックを採用しました。
- シンガポールで東洋一の超高層ビルを施工
- シンガポールの地元四大銀行の一つであるユナイテッド・オーバーシーズ・バンク(大華銀行)のUOBプラザ新築工事を施工しました。丹下健三氏の設計になる280mの建物はシンガポールのビジネス街ボンハムストリートに建設されました。当社が初めて経験した高さでした。コンクリートの打設はIHI社製のコンクリートポンプを使用し施工例のない280mの高所圧送が行われ1年間休みなく打設を続けて工程を確保しました。
- トンネル全長6,626m
雁坂トンネル着工(山梨県) - 雁坂トンネルは、山梨・埼玉両県に跨るトンネル工事で、山梨側工区を担当しました。「開かずの国道」と呼ばれる国道140号線の通行不可能区間(標高2,082mの雁坂峠を挟んだ約10km)を結ぶもので、トンネル全長は6,626mにおよび、道路トンネルとしては全国4番目、一般国道としては一番の長さです。(当時)
1989 平成元年
- 草加駅東口再開発事業
第2街区施設建築物新築工事着工 - 本工事は東京都心から約17kmの東武伊勢崎線草加駅前広場を中心として計画されたもので、第一街区(清水・奥村・谷古宇特別共同企業体)、第2街区(西松・大林・佐藤特別共同企業体)および両街区を結ぶ駅前広場下部の地下駐車場(清水・奥村・谷古宇特別共同企業体)の3工区が競合し、各企業体が各々の技術を発揮しながら逆打ち工法で工事を進めました。当社としては、逆打ち工法を採用した最初の工事となりました。
1990 平成2年
- アフリカの大地で施工
- 1990(平成2年)ジンバブエ共和国で日本政府の無償資金援助による灌漑用の中規模ダムを4年間で6ヶ所建設しました。これらのダムの完成によって長い水路によって供給される豊富な水はとうもろこしや野菜の畑を富ましました。更に1994年(平成6年)ギニア共和国で無償資金援助によるコナクリ市飲料水供給計画、2001年(平成13年)、マダガスカル共和国で無償資金援助による水産流通施設整備工事、2003年(平成15年)アンゴラ共和国で無償資金援助による国立病院改修、新設工事などに参加しています。
- 警視庁新橋庁舎改築工事着工
- 本工事は複雑、多様化する警察業務に対応することを主目的に、電算センターの機能を核とする「高度情報化建築物」として、平成2年7月に着工されました。本建物内には警視庁交通管制センターが入り、道路交通情報の収集、分析、信号機などの制御や、交通規制などの指令を行っています。
1991 平成3年
- 東京湾横断道路工事に参加
- 神奈川県川崎市と千葉県木更津市間を結ぶ東京湾横断道路は9.4kmの海底トンネルと長さ4.4kmの橋で構成され、ほぼ中間点に木更津人工島(海ほたる)が位置する全長15.1kmの自動車専用道路です。当社は川崎人工島西工事(鹿島・当社・日産・東洋JV)、中央トンネル川人北その1、2工事(当社・戸田・銭高JV)を施工しました。川人とは川崎人工島の略ですが当社は人工島から木更津側に向けて海底を掘削するものでした。工事は1997年(平成9年)竣工しました。
- 近畿自動車道吹田インターチェンジ工事 着工
- 吹田IC周辺は高速3路線(名神高速、近畿自動車道、中国自動車道)が交差し、関西圏における都市交通の重要拠点ですが、恒常的に交通渋滞が発生し、当時予想された関西新空港の開港や、和歌山線全通による更なる渋滞の多発の抜本対策として、吹田ICの全面改良が計画されました。既設のICを供用しながらの工事のため、工事範囲や工事時間に制約を受けながらの作業でした。名神高速本線下に2本のボックスカルバートを新設する工事では、安全性や工期の短縮を目的に、パイプルーフ工法を採用しました。本工事は平成5年度土木学会関西支部技術賞を受賞しています。
1992 平成4年
- 竹芝ふ頭再開発第3期建築工事(オフィス工区)着工
- 東京都は東京湾岸の整備に乗り出し、ウォーターフロント開発の第1号が竹芝地域でした。この工事は当社が都心で建設する初の超高層ビルでした。地上22階、最高高さ99.8m、地下3階の規模で東京都、東京電力、銀行団等による第3セクターの発注です。当社として2回目となる逆打工法を採用し、護岸に面する軟弱地盤のため、RC連続地中壁、鋼管柱列、SMW、コラムジェットと多くの工法を採用しました。作業所はUOBプラザ施工担当者、経験豊富な土木技術者など多彩な人材で取組みました。
- 香港新空港用造成工事受注
- 香港政庁は港湾及び空港関係開発計画(PADS The Port and Airport Development Strategy)を発表しました。その中核となるのがチェクラップ島の造成と海上埋め立てによって1,248haの新空港を建設するものでした。造成工事は当社をJVリーダーとして、コスティン(英国)、モリソン・クヌードセン(米国)、バラスト・ニーダム(オランダ)、ヤン・ド・ヌール(ベルギー)、中国港湾(中国)のインターナショナルJVで施工しました。この他ターミナルビルの基礎工事、インフラストラクチャー整備など多くの空港関連工事を施工しました。
- NSSニューステージ札幌
新築工事着工 - 当時、南口と比較して開発の遅れていた札幌駅の北口に計画されたオフィスビルです。東京建物株式会社様との共同事業で、当社初めての自社開発物件として建設されました。
1995 平成7年
- リニア高川トンネルの施工
- 超電導リニア山梨実験線の高川トンネルの掘削断面はやや偏平で新幹線のトンネル断面より25%大きく設計されました。トンネルには車体を浮上させるコイルを設置するコンクリート製のガイドウエイが車両を囲むように設けられるために精度の高い仕事が要求されました。また、トンネルは実験線唯一の曲線で構成されていました。山梨実験線は、リニア開通後は幹線の一部に編入されます。
1997 平成9年
- タイ国バンコク地下鉄工事の施工
- バンコク市内の慢性的な交通渋滞を解消するために円借款によって地下鉄が建設されました。北工区と南工区の約23kmで当社は大林組、イタリアンタイ社とのJVにより北工区上下線約18.4kmを施工しました。工事では軟弱地盤でのシールド工法による長距離掘削など日本の技術が遺憾なく発揮されました。
- 立花再開発の施工
- 尼崎市の「西の都市核」と位置付けられたJR立花駅周辺、南地区で施行された再開発事業です。老朽化した木造の商店、住宅が建ちならぶ2.2haの再開発エリアの中で近隣住民、JR昇降客の方々に配慮し、仮設店舗建設に始まり段階ごとに車両、歩行者動線を切替えつつ既存建物を除却し工事エリアを拡げていきました。工事においては逆打ち工法、二段打ち工法の採用により躯体三層同時施工を行い、また当社技術研究所開発の薄肉Pca型枠工法である「ネオフォーム工法」を採用するなど、当時、当社のもてる技術の粋を集め施工しました。
1998 平成10年
- 愛川衝撃振動研究所設立
- 当社は阪神淡路大震災に見られたような強大な衝撃と振動から生じた構造物の破壊メカニズム解明のために阪神淡路大震災を再現できる装置を有する衝撃振動研究所を設立しました。導入された振動台は試験体に振動と衝撃を同時に加えることが出来るもので業界最大の規模を有しました。この装置を活用して耐震、制振構造物に関する自社研究、他社、産学との共同研究、受託研究などにより成果を上げています。
1999 平成11年
- 戸田建設と技術提携を結ぶ
- 両社の人員、施設、実験装置を効率的に活用して研究開発の相乗効果を得ようというものでした。共同研究により複合免震技術や高耐久性コンクリートの開発などに成果をあげ、多くの特許を出願しました。
(2009年10月より、技術研究開発を提携の主軸とした技術提携に変更しました。)
2000 平成12年
- 神保町ジェイシティー東京の施工
- ジェイシティー東京は本の町、東京神保町で施工されました。ジェイは神保町のイニシャルJです。東棟地上23階「神保町三井ビルディング」、西棟地上29階「東京パークタワー」、事務所棟地上12階「神保町101ビル」から成ります。延べ45万人の人々が工事に携わりましたが無事故で完成しました。準備組合の結成から15年以上を要した再開発事業でした。
- 西松のシールド工事の掘削実績
182kmに達する - 1964年(昭和39年)に先発他社の後塵を拝しながら東京都下水道局の雨水管渠工事を皮切りとして国内外で工事実績を重ねて企業先の信頼を深め、シールド工事は当社の看板工事となっていきました。
- 発想の転換
MOVE HAT解体工法
高層ビルの解体 - この時期、都内では多くの大型再開発事業が進行しており、当社もオフィスの建替え事業に参画しました。都心部での高さ70mのオフィスビル解体工事は難易度が高く、同業他社での実例がありませんでしたが、従来の発想から脱却した昇降式養生と新しい解体方法の開発で安全性の確保と環境に配慮した解体工事を実現しました。この工法はその後の高層ビルの解体手法をリードすることになりました。2003年に特許取得・商標登録を行っています。
- 可児市文化センターの施工
- 可児市文化創造センター 愛称「ala(アーラ)はイタリア語で「翼」を意味します。可児市の市民の方々が建設前から文化の創造や運営面で討議され施設建設に反映され現在でも多くの市民の方々の文化普及支援の施設となっています。施設内容は、1019席の主劇場「宇宙(そら)のホール、311席の小劇場をメインに各種の施設を備えています。当建物は、平成16年のBCS賞を受賞しました。
2001 平成13年
- 六本木ティーキューブの施工
- 霞が関から、首都高速3号線を西に走ると正面にそびえ立つのが六本木ティーキューブです。外国資本を含むSPCによる発注で、地上27階138mのオフィスとサービスアパートメントの複合ビルです。傾斜地の偏土圧を受けながらの逆打工法の実現は建築設計部と土木設計部の協力によるものです。高層部の鉄骨工事・外装カーテンウォール工事・内装材の購買は本格的な海外調達を行い施工されました。
2003 平成15年
- 西松国内初のPFI事業、江坂南パーキングサービスに参加
- PFI(Private Finance Initiative)は、社会資本の整備を民間の資金、運営を活用して行う事業方式で当社は海外でその実績を重ねてきました。当社は、大阪府がPFI事業として公募した20億円規模の吹田市駅前の乗用車106台の駐車機能を持つ自走式立体駐車場建設に国内では初めての参加をしました。この事業は大阪府にとっても初のPFI事業でした。2005年(平成17年)日本PFI協会の日本PFI大賞特別賞、また、景観、機能面が評価されて駐車場整備推進機構により第2回日本ベストパーキング特別賞を受賞しました。
- PFI事業、総合地球環境学研究所施設整備事業(京都)を施工
- 総合地球環境学研究所は2001年(平成13年)に創設された文部省所管の大学共同利用機関です。事業は総合研究棟施設、宿泊施設の設計・建設等を行い、完成引き渡し後に維持管理を事業期間中(12年間)に亘って実施しサービス対価を受けるものでした。同年、九州大学研究教育棟I施設整備事業にも同様の仕組みで参加しています。
2005 平成17年
- 鈴鹿トンネル上り線竣工
- 第二名神高速道路のNATMトンネル。内空148m$00B2、施工延長3,976m。Φ5.0mのTBMによって三車線トンネルの先進導坑を構築。TBM工事においては地山に恵まれたこともあり、885.7mの国内最大月進記録(当時)を達成しました。
- 沖縄米軍嘉手納基地
家族住宅改修工事の施工 - 多くの建設会社にとって終戦直後の米軍工事は起死回生のきっかけとなりました。その頃、全国の基地で家族住宅の建設がされました。しかし、時日の経過と共に大規模改修の必要が生じ当社は嘉手納基地住宅改修5期工事を施工しました。これを皮切りに嘉手納、三沢、横田、岩国の各基地で同様の工事を受注、施工しました。
- キャノン平塚新拠点計画
A棟・B棟新築工事の施工 - 平塚市郊外(当社平塚製作所跡地)の29,826m$00B2の敷地面積に研究開発棟地上4階、塔屋2階のA棟(5,269m$00B2)、B棟(5,396m$00B2)と動力棟、倉庫等からなる研究開発の拠点となるプロジェクトでした。当社は急速施工が要求される中、工事事務所の組織形態をもって施工しました。
2010 平成22年
- 武蔵小杉駅南口地区西街区
第一種市街地再開発事業 - 当地区は、東急及びJR武蔵小杉駅に隣接する1.4haの区域であり、店舗、図書館、地下変電所、都市型住宅からなる再開発ビルは、輻輳する大規模再開発により注目を浴びる武蔵小杉の核として建設され、多くの住民に利用されています。当社は、平成12年に事業協力者として選定され、施工計画立案等の協力を開始し、平成22年からは、新たに特定業務代行者として、再開発ビル(地上39階建・中間免震の高層ビル)施工、保留床処分等の業務を担当、事業完成の一翼を担いました。
2012 平成24年
- 玉川大学との産学連携事業がスタート
- 当社のビジネスノウハウと玉川大学の研究・開発の成果を用いて産学連携によるLEDのみを主光源として野菜生産をする事業を開始し、㈱サイテックファームを設立しました。「食の安心・安全」に対する消費者ニーズに応える新たな農業ビジネスモデルとして注目されています。
2015 平成27年
- ラオスで日系ゼネコン初となる合弁会社を設立
- タイ現地法人 泰国西松建設㈱とラオスの建設・コンサルティング会社のサワンTVSコンサルタント社は、ラオスのサワンナケート市サワン・セノ経済特区内に、日系ゼネコンで初となる合弁会社「ラオ西松建設㈱」を設立しました。ラオスでは、東南アジア諸国連合「ASEAN」経済共同体の発足を控え、日系企業の進出が加速しており、タイで50年以上の歴史をもつ泰国西松建設㈱とラオスにおいて日系企業の工場進出の受け皿となってきたサワンTVSコンサルタント社との合弁会社設立により、お客様のご要望に合致する充実したサービスの提供を進めてまいります。
- 新コーポレートスローガン
「未来を創る現場力」を制定 - 当社の新しいコーポレートスローガンとして「未来を創る現場力」を制定しました。このスローガンは、当社の強みである「現場力」と、将来にわたって継続的に社会貢献する姿を表しています。当社が考える現場力とは、現場における決め細やかな施工管理力と、現場に潜む様々な課題を自ら発見し、自ら解決するチカラです。創業以来140年間にわたって磨きぬいた現場力を活かし、安心・快適に生活できる住環境の提供と、持続可能な社会基盤を構築していきます。
2016 平成28年
- エコファースト企業に認定
- 「地球温暖化対策」をはじめとした環境への取組みについて「エコ・ファーストの約束」を宣言し、「エコ・ファースト企業」として認定されました。
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- 西松建設の「エコ・ファーストの約束」
- 1低炭素社会の形成促進のため、カーボンフリーを追及します。
- 2生物多様性への配慮、自然との共生のため、生物多様性保全活動を実践します。
- 3循環型社会の形成促進のため、廃棄物ゼロエミッションを追求します。
- 4全社員の環境意識高揚のため、環境教育を実施します。
2017 平成29年
- 当社初の商業施設開発・運営事業「ハレノテラス」開業
- 当社の新たな事業展開として、商業施設「ハレノテラス」をオープンしました。この事業は、当社グループが企画・施工から管理・運営までをトータルサポートするパッケージ型ビジネスの第1弾になります。グループ一体となって地域の皆様に快適にご利用いただける場を提供し、末永く愛される施設を目指します。
2018 平成30年
- NCOメトロ神谷町 完成
- 西松建設グループが所有する既存ビルの敷地と、神谷町駅1番出入口用地を含む東京メトロの所有地を一体化し、バリアフリー法認定、BCP(事業継続計画)対応、ZEB Ready評価取得など充実した設備、機能を備えた駅直結のハイグレードビルを西松建設の設計施工で新築しました。
2019 平成31年
- 「健康経営銘柄2019」に総合建設業(ゼネコン)として初めて選定
- 経済産業省と東京証券取引所が共同で主催する「健康経営銘柄2019」に総合建設業として初めて選定されました。当社は、社員の心身の健康が企業の持続的な成長につながると考え、社員が健康に働ける職場環境の整備を推進しております。
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- 主な取り組み
- 12018年度より30歳以上の社員を対象として人間ドック受診を義務化。
- 2人間ドック休暇の取得や受診費用の補助。
- 330歳未満の社員に対しては全額会社負担による年2回の健康診断の受診を義務化。
2024 令和6年
- 西松建設 創業150周年
Next 150 years